ゴミの処理を考えずに
 国の原発推進は使用済み燃料の処理の膨大な作業を知りながら、そのことを国民に積極的に知らせず、国は、電力会社は、経済界は、学者は、マスコミも原発政策を推し進めてきた。たとえこれから原発政策を止めるにしても何十年もか掛かるとはほとんどの国民は知らなかった。とんでもない化け物を人類は生み培養してきたのではないか。
 よく考えてみると原発に限らず、世界の経済の発展、技術の革新は後始末は先送りして前へ前へと進んできた。公害の垂れ流しは先進国で終結しつつも後進国では今も尚浮塵子のごとく激増している。地球規模で考えれはゴミの排出場所が変わっただけだ。
 私の二十歳代頃のお茶の水の神田川はメタンガスがブクブクと吹き出し生き物など住めない川だったし、川崎市の空は黄色の煙に覆われ硫黄の臭いが充満していた。世界の経済はこのように地球を汚し発展してきたのである。特に国境のない日本はゴミは川に捨てれば、海に捨てれば、良いという発想が定着していた。大陸ではゴミを川に流せば隣の国に流れてしまい、ゴミを燃せば煙が隣国に流れてしまいこじれれば戦争にも発展しかねない国同士の微妙な問題である。
 日本の原発の立地は全て海岸沿いだ。勿論冷却の問題だったと思うが外国のように何基かは内陸に建設しても良かったのでないか。今となっては原発処理問題は戻れないのであるから、神田川がきれいになったように、川崎の空が澄んだように、何十年掛けても世界のモデルに成るような原発処理を日本人の英知を集結して達成して貰いたいものだ。経済成長の恩恵に浴した我々年代は肩をすぼめて草葉の陰から祈っている。

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