日本の文化

先日、ある会合で相撲の八百長の話が出た。私も意見を求められたので、相撲については話の種として八百長の話をするのは良いが、マスコミなど公の場でその話をすのはルール違反だ、と私が言ったら賛美両論大騒ぎになった。理由を言えと言うので、長い歴史のある独特の村社会、当然八百長はあるだろう。しかしどんな相撲でも絶対に八百長とは断定はできない。例えば千秋楽で七勝七敗の力士と十勝四敗の仲の良い力士同士が対戦した場合、勝負に臨む気持ちが、七勝七敗力士と勝ち越している力士とでは自ずから違う。これを八百長というのか疑問である。限られた力士達が年何回も対戦する大相撲でこの様に勝負の貸し借りが生じても不思議ではない。
 格闘技の八百長の判定は実に難しい、勝負が賭の対象になっているなら赦すことは出来ないが、日本の文化として長い歴史のなかで育まれてきた相撲は勿論多くの問題はあるが、杓子定規の批判は出来ないと私はは思っている。
 日本文化と言えば、歌舞伎にして、落語にして、結末は観客は皆分かっていながら、その都度、その都度、泣き、笑い、怒り、大衆は「待ってました」と観劇するのである。
 最近マスコミが大変な問題だと騒いでいる核兵器持ち込みの密約問題も国民は余り驚かない。「そんなこととっくに分かっていたよ」というのがこの問題に対する国民の理解である。
 小沢一朗問題も国民は長いこと小沢さんは田中派の中枢にいた人なのだから、あって不思議はないと思っている。民主党も検察の横暴だとか潔白だとかばかり言っていると、本気で支持している支持者まで失うことになりますよ。
 
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