東京オリンピック前のオールジャパン

 昭和36年日本レスリング協会は東京オリンピックで目標に金メダルを8個を掲げ、八田団長以下フリー、グレコ全階級に精鋭を揃え、ソ連、バルカン諸国に40日間の遠征を挙行した。飛行機はアンカレッジ経由の北回りで、アンカレッジ空港の乗り換えの待ち時間にも零下20度の空港で八田会長の命令でトレーニングをした。ソ連ではモスクワで大観衆に迎えられたのを始め、各地で4試合をした。試合は軽量級は日本が3勝し中重量級で負けるという展開で3−6 4−5で日本が負ける展開だった。
 ソ連のあとは東欧各国を転戦し、最後は強国イランでの2戦で全日程を終えた。私は最後のイラン戦まで負けなしで来たのだが、最後のイラン戦で2敗してしまい会長の特別賞を逸してしまった。
 この大遠征のメンバーから東京五輪のメダリストになったのは渡辺、市口の2名だけだった。東京五輪のゴールドメダリスト吉田、上武、花原、3位の堀内はこの遠征には加わっていなかった。これを見ても当時の国内のしのぎ合いは如何に厳しかったか分かると思う。
 ここで書きたかったことはこの遠征に参加した選手達が金メダルを取ったことではなく、その後の社会人としての人生をどう生きたかである。
 風間貞勝氏は日野車体(株)の社長に、石川忠男氏は東京日産(株)の副社長に、笹淵五夫氏は日本体育大学の副学長に、藤田徳明氏はニューヨークの富豪に、渡辺長武氏は電通の副部長に、市口政光氏は東海大教授に、浦田登氏は池上本門寺朗峰会館の社長に、佐藤多美治氏は日野自動車台湾所長に、梶川氏は岡山県の会長となりタクシー会社の社長となった。
 監督の林正平氏は八田会長の後の日本協会会長となり、日本揮発油の社長に就任した。
 私も小さいながら会社の社長を30年間務め70歳を過ぎても現役で働いている。
 当時の選手達は八田会じきじきの教えを人生に生かし社会人として大きく成長していったのである。


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