「韓国レスリング界」村田恒太郎氏の話

 昭和20年8月15日太平洋戦争は終わった。日本の敗戦により世界に僅かであるが平和が訪れた。
 明治大学を退部した同志は韓国に帰国してレスリング協会の早創者となり活躍の報が日本にも伝わってきた。金鐘爽は始祖と尊敬され、金競煥は韓国レスリング協会会長に就任した。
 しかし、何故か黄柄寛、金石永の名はない。何故か?

 羽田空港経由でロンドンオリンピック大会に出発した韓国レスリング選手団を村田は見送ったのが、それが、黄柄寛、金石永との永久の別れになるとは夢にも思わなかった。
 昭和25年6月朝鮮民主主義共和国は中国人民解放軍と共に朝鮮半島軍事境界線を越え南進し一瞬にして京城を占領したのである。金石永の父は戦前日本の宇垣総督とも対等に話の出来地位にいた人物であった。その息子の石永は共産党の標的となった。厳しい追跡を受け、共産軍に乱射され無惨に殺害されたのである。
 その報を聞いた黄柄寛は共産軍に占領されている京城で、仇討ちに行くと仲間が止めるのを振り切って、素手で共産党のアジトに乗り込み射殺されたという。黄の性格を知る仲間達は堂々たる戦死だと黄の死を讃えた。しかし韓国レスリング協会は大きな財産を失ったのである。金は26歳、黄は28歳であった。
 悲劇の民族同士の朝鮮戦争は昭和28年7月、米中ソの駆け引き交渉の結果、38度線を境として停戦協定が結ばれたのである。

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