村田恒太郎氏のこと

 村田恒太郎は1922年1月1日東京浅草の生まれである。明治大学第9代目主将を務め昭和17年フェザー級で全日本選手権に優勝している。
 昭和18年初年兵として中華民国湖南省の第57旅団大68師団初年兵教育隊に入隊する。村田は大学卒であったが幹部候補生の資格を返納した。「なぜですか?」の私の質問にニヤニヤして村田は語らなかったが、学校教練に反対して幹候資格を返納した。
 「村田は偉い」と同期の旧制浦和中学出身、秀才久我寿一等兵は「俺」に敬意を持っていた。その久我は「村田元気でやれよ!」と明るい顔で言った翌朝、便所で銃口を口に入れて自殺した。村田は強烈な話を淡々とするのである。
 第二次大戦を「馬鹿馬鹿しい戦争」と言い、戦死した戦友達の話ばかりした。村田は終戦記念日を「敗戦忌」と言い、靖国神社で行われる「戦友会」「同年兵会」には欠かさず出席している。
村田の俳句に「大夕焼け戦友の小指を茶昆に付し」「戦友の片腕吊し炎帝行」という強烈な句がある、死とと隣り合わせだった村田の軍隊生活の一端が見えるが、単なる反戦とは違う我々には想像も出来ない境地だろう。
 村田が参戦した衝陽城攻略戦では中隊に派遣された同年兵50人の内20人が戦死、15人が戦傷、元気だったのは村田を含めて10程人だったという。終戦後村田の部隊は「殿軍」シンガリ軍の任に付き、復員命令が出たのは昭和21年4月4日だった。昭和21年6月7日鹿児島県加治木港に村田は帰還した。終戦から約1年後の復員の完結である。
 多くの若者が死んだ昭和20年の日本人の平均寿命は23.9歳であったという。

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