貴重な資料

会社経営に(財)レスリング協会運営に、JOCの舵取りに、激務に追われる福田会長から日本レスリング協会設立当時の資料が送られてきた。レスリング協会八十周年記念行事を三年後に控え会長は、忙しい毎日の時間を割いて資料を集めているとのことである。
その資料の一部を紹介します。
第十回ロスアンゼルスオリンピック控えた頃のレスリング界は、八田一朗、山本千春派、講道館田口派、早大柔道OBの庄司彦雄派の三つの団体があり日本レスリング史的にも混乱の時代である。ロスアンゼルスオリンピック以前にはレスリング協会は設立されておらず、第八回パリ大会にペンシルバニア州立大学生であった内藤克俊選手が単独出場し銅メダルを獲得したこのメダルは日本選手団唯一のメダルであった。次のアムステルダム大会には講道館強豪新免伊助が参加したが初戦敗退であった。ロスアンゼルス大会は嘉納治五郎体育協会会長の推挙を得て選手枠が増員され、選手は全て柔道家で占められ、八田一朗五段、宮崎米一三段、鈴木榮太郎四段、河野芳男四段、加瀬清五段それに米国在住の小谷澄之六段吉田四一四段が参加したが全選手で一勝も出来なかった。この敗戦により柔道とレスリングとは全く異質の競技であり、レスリングを専門的に訓練しなければ世界には通じないと言うことを講道館も理解し、レスリングから撤退した。柔道が世界一の格闘技であると確信していた講道館にとってこの出来事は大変な衝撃であったようである。
ロスアンゼルスオリンピックの敗北を期に、八田派である日本アマチュアレスリング協会が設立され、初代会長に今村次吉氏が就任し組織的にも協会の一元化が実現した。今村氏は蹴球「サッカー」協会の初代会長も兼ねていたアマチュアスポーツ界の重鎮であった。設立当時のレスリング関係者の熱意は凄いものがあり、昭和八年当時では考えられなかったハワイ遠征を八田一朗監督以下五選手で敢行し、その翌年にはハワイ選手団を招き東京と大阪で親善試合を開催したのである。これは福田会長から送られてきた資料の一部を紹介したのだが、これだけの史実だけでも興味津々たるものがあるり八十周期年誌の完成が今から待ち遠しい私である。
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