戦争に召集される悲劇

 太平洋戦争も末期に弱々しい中年の男達が召集され出征する場面を私は見ている。当時六歳だった私は埼玉県の坂戸町に一家で疎開していた。疎開先の家は坂戸駅前であった。昭和十九年頃は戦況も悪化していたので、新たな兵力として誰れ彼れなしに男達は応召されていった。駅には毎日、日の丸の小旗を振って家族や隣組の人々が出征兵士を送りに来ていた。もんぺ姿の妻は涙にくれ、小さな子供の手を取ってちぎれんばかりに旗を振り、「勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからは〜」と軍歌を歌って送っていた。
 その頃に出征する男は、一度は兵士として不適格となり徴兵検査乙種とされた人達が大半で、とても戦争など出来そうもない華奢でかなり年輩の男達であったようだ。戦況も悪くなり、次々に敗退する日本軍は、軍人として不適格の人々まで召集し戦地に送り込んだのだ。当然兵士としての訓練も受けておらず、戦争にかり出されるなどとは思いも寄らなかった人々が戦地に送られたのである。当時の若者は誰でも国への忠誠と闘う気概を持っていた。しかし、病弱で戦争など到底無理と思っていた人達まで応召され、どんなにか心細い思いをした事だろう。
 夏になると私はある事件を思い出してしまう。
 私は終戦の玉音放送を坂戸の疎開先で聞いた。ガーガーいうラジオをかこんでいた大人達は皆泣きながら聞いていた。私はなんのことか分からなかったが、戦争に負けたらしいとは思った。東京に帰り翌年小学校に入学した私が一番仲良くしていたA君のお父さんは戦死していた。新聞記者であったA君のお父さんは、病弱であったが終戦間際に応召され出征し、すぐに終戦になったものの復員せず、後に戦死の公報が届いたという。家族には戦死とだけ知らされたが、厳しい訓練に耐えかねて兵舎で自殺したと言う噂も聞いた。戦後の苦しい生活は誰も同じだったが、特にA君は大変だった、小学生ながら母を助け、幼い妹と母を何時もかばうように頑張って生きていた。何時もぼろぼろの服を着ていたA君は、勉強は常に一番で近所でも評判の子供だった。私の母もA君になにかあったらかばってあげなよ、と私に言っていた。
 その後、A君は学区で一番の都立高校に入りながら、何処かにいなくなってしまった。少年院に送られたという噂を聞いたのはしばらくしてからだ。A君は中学時代に父の死因を知り、父の遺書とも思える戦争に行く不安と悲しさを綴った母宛の手紙を読んだのだ。手紙を読んだA君は、お父さん、お父さん、と言って、一週間泣き続けたそうである。中学三年になってグレたA君は、地域一番の都立高校に入りながら、犯罪を犯して警察に逮捕され少年院に送られた。私に手紙の話をしてくれたA君のお母さんと妹はどこかに引っ越していった。私にとって悲しい忘れられない思い出である。夏になるとあの弱々しい中年の男達が、日の丸の小旗で送られて出征して行った風景を思い出すのである。
 
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