八田会長の話から「太田節三 第三話」

 「君・・・太田節三は千夜子饅頭を食ったんだよ。」八田会長が突然訳の分からぬ事を言いだした。話はこういうことだった。
 昭和52年NHKの朝の連続ドラマで、日本初の歌謡歌手ソプラノの佐藤千夜子の物語を放送した。確か「いちばん星」という題だったと思う。そのドラマにちなんで、千夜子の郷里・山形県で千夜子饅頭という饅頭を売り出し、多いに売れているという新聞記事を見て会長が冒頭の言葉を吐いたのである。
 昭和五年東京行進曲で大ヒットした歌手佐藤千夜子は、オペラ歌手になる夢を捨てきれず、ミラノに留学すると言って日本を後にしたが、彼女が着いた先はミラノではなく、ロスアンゼルスであった。ロスアンゼルス行きはどのような経緯であったかは分からないが、太田節三と出会い同棲生活に入った。多分、日本出発前から二人は連絡は取れていたのであろうが、日本ではオペラ歌手になる為にミラノに留学したとほとんどの人が思っていた。八田会長の推理では、誰か日本人で太田節三を良く知る人が千夜子に太田の事を話し、太田がスポンサーになってくれるむねを千夜子に伝え、千夜子はその話にのってロスに行き、太田節三の金でその後ミラノに行ったのだろうといっていた。会長は何故そんなことを知っているのか聞いても教えてくれなかったが、八田会長には戦前からの在米邦人の友人が沢山いたのでその辺からの情報だと思う。
 バンニング婦人の遺産は遺産相続委員会なる人達で管理されており、太田節三が自由に出来たのは金庫にあった当座の金と宝石類だけだったとも言われている。しかし婦人は18歳の時既にバンニング家の遺産相続人に指名されており、太田節三が正式に結婚をしていたのであれば財産はたとえ対日戦争前の米国といえども、太田節三のものとなるはずである。当然この件は裁判で争はれる事となるのだが、結論はなかなか出ず、どの様に解決したかは会長も想像の域は出ないと言っていた。そして日本は米国を始め列国の圧力に耐えかねて、窮地に立ち真珠湾攻撃へと突き進んで行くのである。在米邦人は収容所に移つされ屈辱的な辛い生活に入って行くのであるが、その時期太田節三がどの様に過ごしていたかは分からない。田鶴浜弘氏によると、太田節三は戦争のさなかも米国の田舎でプロレスをやっていたらしい。収容所に入れられなかったのはやはり金の力かも知れない。
「君・・・ところがだよ。敗戦後混乱の日本に太田節三が大金を持って日本に帰ってくるんだよ。日本の財界は大騒ぎで太田を追いかけ廻したんだ。だって太田のサインがあれば銀行はいくらでも金を貸したのだから大変なことになたんだよ。僕は当時帝国ホテルを定宿にしていた太田節三から葉巻を何本か貰ったよ。この話の続きは来週だな、君家まで送ってくれ」と言うと、早起きの会長はまだ9時にならないのに椅子にもたれて眠ってしまった。
 
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