八田会長の話から 太田節三 第二話
 
「君・・・太田は凄いことになったんだよ。」会長の話は佳境に入ってゆく。
 太田節三四段対サンテルの試合は、大正10年に靖国神社で2万の観衆を集めた庄司彦雄対サンテルの復讐戦の様相もあり、太田のセコンドには当時南カルフォルリニア大学で柔道を教えていた庄司彦雄がついていた。在米邦人会も大いに盛り上がり、排日気運の高まる中、こぞって太田の応援に駆けつけた。
 小柄でハンサム、ペップでガッツのある太田節三は邦人ばかりではなく米国人にも大いに人気があった。サンテル戦ではリングサイドの特別席から一目でハイソサイティーと分かる婦人がオータ、オータ、と叫んでいたがそれがバンニング婦人であった。それ以来、バンニング婦人は太田の熱烈なファンとなり、二人の熱烈な世紀の恋愛にと発展して行くのである。
 八田会長の友人であり早大OBスポーツジャーナリストの草分けでもあった田鶴浜弘氏から聞いた話では、バンニング婦人が興奮して退場する太田に高価なハンドバックを投げ、後日太田がそのハンドバックを婦人に届けに行き交際が始まったという事だ。「婦人は50代だというのに美貌で色っぽく、ぞっとするような美人であった」と庄司彦雄は目を細めて絶賛したという。一方の太田節三は明治30年、秋田県大館に生まれた快男児で、豪胆で気宇壮大、冒険と夢想が飯より好きで、身体中にヒロイズムが充満していたという。三船久蔵師範の内弟子を務め明治大学から中央大学法学部に転校し卒業後シアトルに単身乗り込でレスリングも会得し、格闘家としての修行をしながらサンテル挑戦のチャンスをうかがっていた。それが庄司彦雄の応援もあって念願の試合をロスアンゼルスで実現したのである。
 バンニング婦人は大富豪の家付き娘で三度の結婚をしたと言われるマンハンターで、太田との結婚を決意した時もまだご主人がいたという説もある。バンニング婦人は親日家であって日本の文化についても造詣があったという。血気の30歳の美男太田節三四段は、黒帯一本を唯一の資本として億万長者になったのである。新聞はトップニュースで、”シンデレラボーイ太田”と大見出しで書立てた。大富豪バンニング婦人の銀行預金は、当時で7000万ドル、不動産、有価証券、3億ドル、日本円に換算して1500億円との評判で、今だったら幾らになるのだろう。
 婦人の太田への想いは尋常ではなく、結婚の手続きで太田の米国籍の問題が発生するとそんなに面倒なら私が太田籍にはいると言って日本人バンニングになってしまったのである。そして突然二人は大洋丸で日本に帰り、米国から持ち込んだ特別注文のロールスロイスで秋田の太田の実家に墓参りに行っている。そのロールスロイスには、扇に桔梗の太田家の家紋がついていたという。また、東京では三船久蔵師範を招き盛大な宴会を催している。過去バンニング婦人にすり寄った男達は数知れなかったが、婦人は日本人が好きだったらしく、最後に太田と婦人を争った男も日本のやくざのような男で、太田に婦人を取られたと知ると太田をつけねらいピストルで撃った、弾丸は僅かに頬をかすめたが、その瞬間男は脳天から床にたたきつけられたという話である。この剛毅な態度にバンニング婦人が痛く心を打たれたという。
 米国に帰ってからの世紀の大金持ち夫婦はロサンゼルスの大騒ぎを後目にヨーロッパに新婚旅行の旅に出るのである。花のパリの生活がまた豪勢なものだった。超一流のコンチネンタルホテルの特別室を幾つも借り切り腰を据えた二人は毎晩、社交界に顔を出し、また大勢の人々をホテルに招き入れパーティーを繰り広げた。それらの人の中にパリ在住の柔道家石黒敬七や、新進の画家林猛など多くの日本人芸術家もいた。
 ロンドン、パリと豪遊した豪華な新婚さんは次の国イタリアに入った。此処でまたも大事件が勃発するのである。ハネムーン中のバンニング花嫁が心臓麻痺で急死したのである。いくら若作りをしても50歳は50歳、30歳の血気盛んな太田の相手では心臓が持たなかったのだ。
 「君・・・その後の大騒動は親族を巻き込み大変なこととなったんだよ。二人は結婚しているのだから莫大な遺産は太田の懐に転がりこむはずなのだが、新婚早々のアクシデントでそうは簡単には収まらないんだよ。この話はまだまだ続くよ。君・・面白いだろ。」
八田会長は「ほっほっほ」と声を出して笑った。
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