八田会長の話から

 会長は晩年酒を飲んだ後、昭和初期米国で活躍した柔道家の話をよくした。会長の記憶も曖昧なところもあり、「君、この事は正確に調べておけ」と言われ、その後私が調べた中から、面白い話を抜粋して会長が話した調子で書いてみる。

米国で大富豪になった柔道家太田節三
第1話
大正十年庄司彦雄と靖国神社で対戦した、プロレスラー、サンテルのことは君は知っているだろう。その後サンテルは柔道世界チャンピオンを名乗った。米国でこれに挑戦したのが在米柔道家太田節三である。試合は太田の善戦で引き分けとなったがサンテルはこの試合を最後に引退する。しかしサンテルは太田に巨万の富とバラ色の夢をプレゼントすることになる。この試合引き分けに終わったが太田の投げ技は冴え、一回り大きいサンテルを小気味よく投げ飛ばした。太田は均整のとれた身体でアメリカ人好みの明るいハンサムな風貌で、ぺップでガッツがあると観衆を喜ばせた。ベップとは色気でありガッツはど根性である。
 これの試合を見た米国屈指の大富豪リーン・バンニング未亡人に太田が見初められ二人は結婚することとなり、当時のジャーナリズムを沸騰させたのである。バーニング家はカリフォルニアがスペイン領だった頃からの名家で、カリフォルニアは彼女の祖父の領地であった。家付き娘の彼女の亡夫は、南太平洋鉄道の社主で大陸横断鉄道の権利を全て握っていた。ロサンゼルスにはバンニング街があり、サンピエトロ沖の島全体を庭園にした別荘は世界一と言われた。この途方もない大富豪の未亡人は当時五十歳だと言うが、美貌で色っぽく見たところは三十歳代にしか見えなかったそうである。
 太田節三は秋田県大館生まれで、中央大学柔道部出身。三船久蔵師範の内弟子で165センチ75キロと決して大きい柔道家ではなかったが、豪胆で、気宇壮大、男の中の男という人物だったそうである。1922年、太田は野心と希望に胸を膨らませて単身シアトルの土を踏んだ。当時シアトルには柔道場が繁栄していたので、木こりをしながら柔道で名を売りサンテルとの戦いのチャンスをうかがっていたのだ。有閑マダム・バンニング婦人は社交界の女王、海千山千のマンハンターであったが、太田には新鮮なものを感じていたようである。
 マイダーリン・・・私は強くて若い節三が大好き・・・だけどおまえの愛しているのは私より私のお金だろう”と婦人が言うと、節三は甘い殺し文句など言わずに、小娘にはない濃艶なあんたとお金と両方がほしい、と開けっ放しで豪快に言い放ったそうである。マイダーリンあなは正直だわ、だけど二人の間ではお金の話だけはしないでね。私の気持ちが惨めになるから。その代わりお金はいくら使っても良いように寝室の金庫に入れて置くからダイヤルの符号はこれよ。忘れちゃだめよ。かくして太田節三は黒帯一本で大富豪の主人公となるのである。
 君・・・話はこれで終わったわけではないのだよ。まだ波瀾万丈の大ロマンの始まりでしかないだ、太田節三の面白さはこれからだよ。八田会長は手にしたビールグラスを飲み干した。

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