敗戦の理由

 北京オリンピック四十八キロ級決勝戦の伊調千春の敗戦は全く残念な結果であった。決勝で対戦したカナダのヒュン選手は度々日本を訪れ、伊調と対戦しており練習を含めれば何十回も対戦していて、伊調は負けるどころかほとんどポイントすら取らせなかった相手である。十回対戦しても十回勝てると思われる、ヒュン選手との決勝に我々関係者は金メダルを確信していた。おそらく伊調千春も戦いやすい相手との決勝に安堵しただろう。決して気を許したのではなく、決勝に向けて心に余裕が出来たと思う。決勝戦での伊調は落ち着き払っていつでもポイントは取れると言う戦いぶりであった。この様な状態で決勝に臨んだ伊調がなぜ、なすすべもなく完敗したのであろうか。
 第一に挙げられる敗因は、現行ルールである。先取得点を許し焦って反撃を仕掛ける選手にとって三十秒は一瞬である。伊調は落ち着いて計算して最後の三十秒を反撃したとは思えなかった。
 第二にヒュン選手が思っている以上に強く、自信を持って攻撃に出てきたことである。オリンピックの決勝なのである、オリンピックは選手を強くもするし、弱くもするのです。オリンピックで決勝に上がってきた選手には、過去の戦歴等全く関係ないのである。全てを一挙一動に賭けた力は想像も出来ない力を発揮するのである。
 第三に伊調は心身とも疲れ果てて、最低の調子だったことである。決勝で敗れた伊調千春の顔には残念さもなければ、悔しさも感じられなかった。傷だらけの伊調千春の顔は、終わったという安堵感で女性らしい美しい顔だった。アテネから四年間、減量と緊張と責任感から解放された爽やかな顔だった。伊調千春は、私にとってこの銀メダルは金を上まわる銀である、と言った。頭の良い伊調千春らしい発言である。勿論そうである。
 しかし、しかし、金メダルである。手を伸ばせば取れた金メダルを取れなかった、伊調千春の無念を思うと胸が痛むのである。
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